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ヨッシンと 地学の散歩

散歩道の四方山話 


1.日本海はどのように作られたのか

 現在の日本海は今から約1500万年前にできました。どうしてそのようなことがわかるのでしょうか。 岩石は一般に非常に弱いのですが磁力を持っています。これを岩石残留磁気といいます。 この磁力の向きは、火成岩がマグマが冷えて固まるときの地球の磁場の向きにできます。そのため、 岩石残留磁気の方向は、当時の北極の方向を指すことになります。 岩石残留磁気をいろいろな時代の岩石で調べ、過去の地球の磁場の変化の様子が調べられてきました。 その結果、磁石が北極の方向を向いたり、南極の方向を向いたりする時期があったことがわかってきました。
 ところが、今から1500万年前前後に日本列島でできた火成岩の磁力の向きを調べてみると不思議なことがわかりました。 岩石残留磁気の向きは、1500万年前より新しい岩石では、現在とほぼ同じ向きかまったく逆向きになります。 これは普通に、岩石に磁力が残されたからで、向きが変わること以外特に問題になることではありません。 しかし、それより古い岩石からは、西南日本では北東方向に、東北日本では北西方向に北極があったように示されます。 当時の北極はひとつしかなかったはずなので、日本列島は不思議な回転をしたことになります。 つまり、西南日本は右回りに、東北日本は左回りに回転しているのです。このときの回転の中心はどこにあったのかは、 岩石残留磁気からはわかりません。というのは、西南日本で考えてみると、回転の中心を富山・広島・長崎と どこに置いても当時の北極を示す方向は、同じように回転するからです。
日本海拡大  そこで、日本列島の動きが出るだけ小さくなるように、また、大陸にぶつからないように動かすという条件をつけて考えてみることにします。 そうすると、回転の中心は西南日本では九州北西部に、東北日本では北海道西部に置くのがよいことになります。
 この条件に従って、日本列島を中央部で二つに分け、はじめの状態に戻してから、 そして、それぞれを回転させるとどうなるかを考えてみると右図のような図が書けます。回転を始める前の日本列島は赤系の色、 回転が終わってから(現在の日本列島)は緑系の色で記入しています。また、回転前の北(現在と同じ方向として)の方向を赤矢印、 回転させた後その方向がどちらを向くかを緑矢印で示しています。 回転の中心・角度とも正確ではありませんので、回転前がこのとおりであったというわけではありませんが、 だいたいの様子を知ることができます。
 ところで、移動前の日本列島があったところは、どうなったのでしょうか。大きな隙間ができます。 ここには、地下からマグマが噴出してきて、新しく海底が作られ、そこが日本海になりました。 大陸からきれいに切り離されたのではなく、いくつかの断片ができ、それが大和堆などとして日本海に取り残されています。
 驚くことにこの現象が起こった期間は、100万年以内と非常に短かったようです。
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2.フォッサマグナとグリーンタフ変動

 このように昔の日本列島の状態から回転させるのは、東北日本・西南日本を扉として観音開きのように開けることに相当します。 扉の動いたあとのすき間にできるのが日本海です。これ以外にも扉のあいだにすき間ができます。このすき間でも、 地殻は大きく陥没し、激しい火山活動が起こります。このようにしてできた陥没地帯をフォッサマグナ(大地溝帯) と呼んでいます。もともと日本列島の中央を横断する形で、大きな陥没地帯が見られるということで、 大陥没地帯を意味するフォッサマグナと名づけられたものです。 一般に、 フォッサマグナの西縁は糸魚川−静岡構造線、東縁ははっきりしませんが柏崎−千葉構造線とされています。 フォッサマグナの中にも、関東山地など引きちぎられた昔の日本列島の一部が、断片的に取り残されています。
フォッサマグナ  右写真は、新潟県糸魚川市根知のフォッサマグナジオパークにある糸魚川−静岡構造線が露出している崖です。崖を上から下に見下ろしています。 写真の中央を横切るように糸魚川−静岡構造線が通っています。看板と看板を結ぶように通っている筋が構造線です。 それより下側(手前側)がフォッサマグナ、上側(向こう側)が大陸の断片になります。
 この頃の日本海沿岸地域や、フォッサマグナ地域の地層には特徴があります。 まず、 大きく陥没したことを示す巨礫岩が見られること、続いて熱水によって緑色に変色した凝灰岩・ 火山岩を主とする岩石が大量に見られることです。緑色に変色したような岩石を、 緑色の凝灰岩という意味のグリーンタフと呼んでいます。 また、このような大陥没に始まる地殻変動を、 グリーンタフ変動と呼んでいます。写真の場所では、海底噴火でできた枕状溶岩を中心とする岩石でできています。
グリーンタフ  日本列島が動き、すき間ができ始めると、すき間に地盤が落ち込み陥没が始まります。地面が低くなりますので、 海が入り込んでくるようになります。さらにすき間が大きくなると、マントルの圧力が低下することでマグマが発生し、火山活動がはじまります。 日本列島では比較的浅い海底での噴火が中心でしたので火山岩や火山噴出物は変質していて、緑色を帯びているのが特徴です。 一般にこのような岩石をグリーンタフになります。 写真は、秋田県男鹿市山崎のグリーンタフの露頭です。
 このように、日本海の形成、フォッサマグナの形成、グリーンタフ変動は関連した地殻変動といえます。

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3.日本海形成の原因について

 それでは、日本列島を回転させ、日本海やフォッサマグナを作った原動力はどこにあったのでしょうか。 実際にははっきりとわかっていないというのが現状です。一般的にいわれているのは、次の説です。
日本海成立原因  まず、沈み込んだ海洋プレートによって水分が供給されますので、マグマが発生します。そしてそのマグマが上昇してくることによって、 マントル対流が起こります。マントル対流がわき上がってくるところではマントルが開くように流れることによって海嶺が作られ、 新しい海洋プレートが作られ日本海が作られると同時に、日本列島が押し出されます。
 この説は、日本海が現在考えられているような形ででできたとわかる以前に提唱されたものなのでいくつか現状に合わない事があります。 それだけではなく、説そのものにも難点があります。詳しく見ていくことにします。そのためなのか日本海形成の原因と書かれることは少ないようです。
 プレートの沈み込みによってマグマが発生することは、現在の東北日本の脊梁から日本海側にかけての地域にある火山帯や九州の火山帯が、 日本海溝や南海トラフから一定距離離れたところにあることから証明されています。ところが、東北地方や九州を見てもわかりますが、 現在海洋プレートが沈み込んでいる地域(サブダクション帯)の背面で海嶺が形成され陸地が猛烈な勢いで押し出され、 開くことによって溝のように低くなっているところはありません。また、海洋プレートを形成するほど大量のマグマを噴出する火山も見られません。 当然、その地域で、マントルの対流がおこっているとは非常に考えにくいのです。そもそも、海洋プレートの沈み込みによって、 大陸から離れないように大きく押されている上、このようなマントル対流は非常に弱いと考えられるので、日本海が広がっていくとは考えられません。
 日本列島が押し出されるにつれ、日本海溝の位置も押し出されていきます。そうなると、沈むプレートも押し出されていきます。 そうなるとマグマ発生の位置も動いていくことになります。ところが、日本海拡大の原因になったマグマの上昇の中心と考えることのできる位置は、 拡大初期から終了まで変わっていないでしょう。そうでなければ、日本列島が開いていったことが説明できません。 さらに、海溝から現在のマグマ上昇の中心までの距離に比べて、日本海拡大開始時の場合の距離の方が大きいようです。
 決定的なのは、日本海形成に伴って作られたマグマは、海嶺型のマグマであり、沈み込み帯のマグマとは明らかに異なっていることです。 日本列島に見られる火山のマグマ組成は、カルクアルカリ岩系と呼ばれ、カリウムやナトリウムに比べてカルシウムが多く含まれています。 プレートの沈み込みによって、水分や二酸化炭素が供給され、マントル物質の融点が下がることによってできるマグマの特徴とされています。 これに対して、隠岐の島に見られるような日本海形成時にできた火山岩は、アルカリ岩系に属し、カリウムやナトリウムを多く含んでいます。 アルカリ岩系の火成岩は海嶺などに多く見られます。
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4.西南日本の地殻変動

 日本列島が開くように動いた原因を考える前に、それを遡った2000〜1500万年前頃、 西南日本のグリーンタフ地域に属さないところではどのようであったかを順を追って見ていくことにします。
 今から約1800万年前(日本海ができる300万年前)には、四国室戸岬の先端部で、マグマが上昇してきてハンレイ岩が作られました。 同種の岩石が、潮岬や足摺岬の先端部に見られるのでかなり広範囲にマグマが形成されたと考えられます。このマグマはどちらかといえば、 アルカリ岩に属するもので海嶺のようなところで形成されるものです。 その直後あたりから、紀伊半島中部や室戸半島中部は沈降を始め、浅海の堆積物がたまっていきます。
 1600万年前には、西南日本を東西に縦断する場所で沈降が始まり、浅海が入り込んできます。 現在の瀬戸内海とその延長地域沿いに見られるので、第一瀬戸内海と呼ばれることがあります。 この海は、一時深くなりますが、次第に土砂で埋め立てられ浅くなって、無くなっていきます。 その頃になると、ほぼ同じ地域で火山活動が始まります。 この活動で特徴的なのは、 火山岩として讃岐岩があることです。この火山活動の起こった地域を瀬戸内火山帯と呼ぶこともあります。 瀬戸内火山帯を作ったマグマは、カルクアルカリ岩マグマで海溝沿いの火山によく見られるものです。
マントルの運動  その後、火山活動は次第に弱まっていき、直後に日本海が形成されたようです。 なお、瀬戸内火山帯の活動は2期に分かれていて、 前期のものは1600万年前、後期のものは1400万年前という研究結果もあります。
 ところで、このような火山活動はどのようにして起こったのでしょうか。 日本列島南方太平洋下のマントル上部の温度は高く、 日本列島や日本海の下のマントル上部の温度は低ければ説明できると言う意見もありました。( 三宅康幸1985 瀬戸内区以南の中新世の中〜塩基性岩の組成変異など 右図参照)。 しかし、プレート理論が主流になると、 両マントルの間に沈み込むプレートが挟まり、両者は混じり合えないということでこの考えもいつのまにか消えてしまいました。
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5.日本海拡大時のプレート運動

 日本海拡大は地殻内部だけの変動ではないので、その原因はプレート運動やマントルにあると考えられます。 それでは当時のプレート運動はどのようになっていたのでしょうか。
 ナウマンはフォッサマグナができた原因は伊豆半島が日本列島に衝突したのが原因と考えていたようです。 明治時代のことですから、プレートという概念がありませんが、これを使って今風にいえば「フィリピン海プレートが北上してきて その先端にある伊豆半島が日本列島に衝突した」ということになるのでしょう。
 プレートが北上してきて日本列島にぶつかるとしたら、ぶつかっているところから海洋側のプレートが沈み込み海溝が形成されます。 日本列島の位置が少し違うものの、現在と非常によく似たプレートの配置だったというのが一般的な考えのようです。 違うのは、現在は東北日本は北アメリカプレートに属していますが、 日本海ができる前は大陸の一部だったのでユーラシアプレートの一部だったと考えられます。
日本海ができたことによって所属するプレートが遠く離れたものに変わるというのは大変奇妙に感じます。

 フィリピン海プレート東部については、海底の年齢などから3000〜1500万年前にかけて四国海盆を中心に開くようにできたこともわかってきました。 詳しくは別章(海洋底は拡大しているのか)で解説してますので、参照ください。
 これだと、日本列島の南側にあったのが、太平洋プレートなのかフィリピン海プレートだったのかは微妙なところです。 いずれにしても、日本列島の近くでプレートの沈み込みがあったのは間違いはがないでしょう。問題解決には大きな差はなさそうです。 プレートの違いによって、その沈み込む方向が微妙に異なってきます。頭の隅に入れながら問題を考えていくことにします。
2021.0x.xx この節書き換え
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6.マントルの変化と日本列島

 実際には、日本海ができた原因について完璧に説明できる方法は今のところ見つかっていません。正解にたどりつくためには、 いろいろな観点から検証してみる必要があります。ここでは、日本海ができる前後にマントルで起こった現象について一つの仮説を立て、考えてみることにします。
 三宅の説では、南北のマントルの間に沈み込むプレートが挟まっていて、両者が混じり合えないというのが難点でした。 小林の説では、1500万年前に沈み込むプレートがちぎれる事件があったことが説明されています。 だとすると、 日本列島下でもプレートがちぎれ、それによって南北のマントル物質が混じり合うことができたのではないかということが考えられます。 とすると、三宅の考えた様な事柄が起こっていた可能性は非常に大きかったことになります。 一つだけ違うのは、 沈み込むプレートの影響を加味しないといけない点です。この点を考慮して考えを進めていくことにします。
日本海形成1  ここから先の話は、完全に想像だけの世界になります。学術的な根拠は乏しいので物語として読んでください。
 2000万年前までは、日本列島は大陸にくっついていました。南東から海洋プレートがやってきて、当時の日本列島にぶつかり、 そこで沈み込んでいました。
 約2000万年前に、足摺岬−室戸岬−潮岬を結ぶ線上の地下深部で海洋プレートがちぎれ始めます。 沈むプレートは、 加速しながら沈んでいきますので、ちぎれ目はだんだん開いていきます。ちょうど海嶺と同じようになりますので、 すき間にマントル物質が上昇してきて、マグマが発生し始めます。これが室戸岬のはんれい岩の元となります。 また、四国・紀伊半島南部では、沈み込むプレートによる地殻の引きずり込みがなくなりますので、隆起し陸化します。
 ちぎれたプレートは、斜めに沈み込むと同時に、ゆっくりと倒れていきます。上に冷たく重たいマントルが乗っているためです。 これに伴って、上にあるマントル・地殻が引きずり込まれ、地表は沈降します。紀伊半島南部などは沈降し海が入り込みました。
 さらに南側の地域では、暖かいマントル物質がプレートの切れ目から、冷たいマントルの上に乗り上げるように流れ込んでいきます。  このマントル物質の上昇流がぶつかる地域では逆に、地殻が持ち上げられ隆起します。同時に、ちぎれ残った海洋プレートも、 マントル物質が上昇してくるために、後から続いて押し寄せてくるプレートはあまり沈み込むことができません。 そのため、日本列島を乗せているプレートの下に滑り込むように入っていきます。
 このマントル流が上昇・下降する地域は、海洋プレートの移動に伴って次第に北側に移動していきます。
日本海形成2  1600万年前頃には、名古屋−奈良−大阪−岡山を結ぶ地域が隆起地域から沈降地域に転じ、第一瀬戸内海ができます。 これには世界的に起こっていた海水面上昇も関わって、海が大きく広がることになりました。この頃になると、この直下のマントルでは、 倒れるプレートから水分が供給されるため、マグマが発生し始めます。 これが、この地域で少し遅れて起こった火山活動のもととなりました。
 1500万年前ころには、暖かい上昇流がわき出す地域は日本海沿岸地域があった場所を越えました。 同時に、 大陸下に滑り込んでいる海洋プレートの先端よりはるか前に回り込むようになります。こうなると、海洋プレートを持ち上げる力がなくなり、 海洋プレートは沈み込みを始めます。海洋プレート下のマントル物質は回り込んでいって、マントル上昇流と合流し、マントル上昇流は強くなります。
 マントル上昇流が強くなったことによって、大陸プレートにも変化が起こります。マントル上昇流で持ち上げられた大陸プレートは、 上昇流の中心から外側に広がろうとしていました。ところが、これまでは海洋プレートに押されて広がれないでいました。 ここで、下から支えていた海洋プレートが離れると、海洋プレートと大陸プレートとの間の摩擦が少なくなりました。 摩擦が小さくなることによって、海洋プレートに押される力が弱くなっていくのと同時に、大陸プレートが広がりやすくなります。そして、 大陸プレートが一気に裂け、大陸の一部がは押し出され始めます。その裂け目は日本海となり、押し出された大陸プレートが日本列島になりました。
 その後、沈むプレートの落下速度は低下し、そのまま斜めに沈むようになります。この頃になると、沈むプレートにマントル上昇流は遮られ、 日本海海底下へのマントルの流入は止まります。こうしてわずかな期間で日本海の拡大は停止します。
 沈むプレートがちぎれたとすると、日本海ができるのが説明できたようですが、実際にはつじつまが合わないところもあります。 その中で、致命的になりうるものとして、グリーンタフ変動の活動期間をあげる事ができます。日本海沿岸地域では、地盤陥没に始まる火山活動が、 日本海ができるかなり前に始まり500万年間も続きました。この仮説では、日本海ができる直前に火山活動が始まることになります。 結局は、いろいろな説を検証し、よりよいものを見つけていくことが大事でしょう。
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7.日本海と日本列島の将来

 現在日本海の拡大は完全に停止してます。それどころか、東北日本は西に向かう太平洋プレートに押される形で西側に移動して中国大陸に近づき、 日本海は狭くなっています。日本海海底は、東北日本西側で日本列島の下にもぐりこんでいます。 そのため時々東北日本西側で地震が発生します。この潜り込みは、日本海海底が日本列島に押し寄せてきていると言うより、 日本列島が日本海に割り込んでいるため起こっていると考えた方がいいでしょう。
 東北日本の下に潜り込んだ日本海からのプレートが太平洋から沈み込んでいるプレートとぶつかるとどうなるのか想像できませんが、 どうなるにしても、東北日本は西に移動し、日本海は狭められていきます。日本海が半分くらいの大きさになった頃には、 大和堆などの海底にある高まりは集まって持ち上げられ、陸地に変わっていくでしょう。
 西南日本でも、基本的に東南東−西北西方向の圧縮が加わっています。この様子は、地震断層の走向とずれの様子や、 地震発生機構の解析からも知ることができます。このことから西南日本でも、 太平洋プレートからの力が主体であることが推定できます。しかし、地震断層が多いのは中央構造線以北の内帯のみで、、 以南の外帯では東西性の構造や活断層が目立ちます。両者では、圧縮されている様子が異なるようです。 これは、最近の中央構造線が右横ずれに動いているのと関係しているようです。内帯は太平洋プレートの力をまともに受けてつぶれているのに対して、 外帯は西にずれることで力を受け流しているように見えます。東西方向に縮まった中国地方に紀伊半島が、 北九州に四国がくっついている時がくるかもしれません。
 東北日本と西南日本内帯がぶつかり合っているのが、フォッサマグナの西側の地域です。 ここでは、衝突によって激しい隆起が起こっていて、 日本アルプスと呼ばれる高い山地ができています。この衝突がいつまで続くか予測できません。
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補足1:フォッサマグナと糸魚川静岡構造線の関係

フォッサマグナについて  フォッサマグナという名前は、日本列島の地質を調査していたエドムント・ナウマンが 南アルプスから八ヶ岳方面を見ているときに、ここに大きな陥没帯があると考え、大きな溝という意味を持つフォッサマグナと名付けたのが由来です。 八ヶ岳のような山を見ていて溝があるというのは奇妙な感じがしますが、 このあたりには、八ヶ岳や浅間山、他にも霧ヶ峰といった比較的新しい火山がたくさん分布しています。 これらの火山をを取り除いてみると大きな溝が見えてくるというものです。 甲府盆地から中央線(中央自動車道)に沿って松本までとそこから大町を通って日本海に抜ける線に沿って連なる盆地はフォッサマグナの一部ですが、 これが全てではありません。ずっと幅の広い範囲をさします。
 フォッサマグナは日本語では大地溝帯とか中央地溝帯と訳すことがあります。

地溝と地塁 地溝と何か  ところで、大地溝帯とか中央地溝帯という言葉にでてくる地溝とは何でしょうか。 正断層に挟まれた地域が陥没してできた、細長く続く溝状の地形をさしてそう呼びます。 アフリカの大地溝帯やアイスランドのギャオがその例としてあげられます。一般的には大地が引き裂かれようとしているところにできます。
 大地が引き裂かれようとする場所を上から見ると、引き裂こうとする方向と直角方向に大きなひび割れができます。 このひび割れは垂直にできるのではなく斜めにできます。そのまま横にひっぱていくと岩盤の間にすきまができます。 岩盤は空中に浮いていることはできませんから、上側に乗っている岩盤がずり落ちるように下がっていきます。このようにしてできるのが正断層です。
 ずり落ちたことによってその岩盤に歪みが発生しますので、岩盤に新たなひび割れができ、これが正断層となります。 間の岩盤は陥没したようになります。これが地溝ができるメカニズムです。逆に高いまま取り残されたところを地塁といいます。

フォッサマグナと地溝  フォッサマグナというものはその形態からみて、地溝であるとされました。 少なくともナウマンはそう考えたようです。それならということで、地溝の両側にあるとされる断層探しがおこなわれました。 その結果フォッサマグナの西側では糸魚川静岡構造線という断層が見つかり、これが西縁とされました。 フォッサマグナの東縁に該当しそうな断層は今のところ見つかっていません。いくつかの候補はあげられています。
 ここで、注意して欲しいことがもう一点あります。糸魚川静岡構造線は正断層ではないということです。垂直ないし、逆断層になります。 ということは糸魚川静岡構造線は地溝帯の西縁にある断層とは言い切れないことになります。 フォッサマグナは、世界で知られている地溝とは趣が異なるようです。
 その後の研究で日本列島は大陸から引き裂かれるように分離したことがわかってきました。 先に書いたように、このところに大きな陥没地形ができます。これとフォッサマグナは関係がありそうです。 更にいえば、このような場所にできるのが地溝です。フォッサマグナと地溝との関係はどうなのでしょうか。 少なくとも、フォッサマグナは日本海形成時にできたのは間違いないでしょう。

日本列島の地質区分布  大陸が引き裂かれることによって日本海ができたとします。 引き裂かれた大陸の断片は日本列島の骨組みとなっていることになります。どこにあるのでしょうか。 少なくとも日本海ができる新第三紀よりも古い時代の岩石が分布するところはそういう場所であることはいえます。
 日本列島の地質図から考えてみることにします。産総研地質調査総合センターのシームレス地質図V2の地質図を下に示します。 白くなっているところは、新第三紀以後の岩石が地表に分布するところです。新第三紀の岩石でも日本海ができる前の岩石もあります。 このような場所も消去されています。また、伊勢湾周辺や琵琶湖から大阪湾にかけての地域のように、 古い岩石があっても上に新しい岩石が乗っている場合も白く抜けていることに注意してみてください。
日本列島基盤地質図
古第三紀以前の岩石の分布を示した地質図
出典元は産総研地質調査総合センター
以下は2020年11月に閲覧したときのURLです。
https://gbank.gsj.jp/seamless/v2/viewer/?base=CHIRIIN_BLANK
&center=38.1,136.3&z=7&opacity=1&agefilter=1ffc&lithofilter=7e

 地質図を見て気がつくのは、中部地方の真ん中あたりを境にして、西側は古い時代の岩石が主体であるのに対して、 東側が白く抜けていところがほとんどであることです。白い地域には、いわゆるグリーンタフが主に分布しています。 その境界線ははっきりとわかります。
 このことにより、日本列島は2つに区分されることになりました。グリーンタフを主体とする東北日本地質区と 古い岩石を主体とする西南日本地質区です。 一般に地質区の境界には大きな断層が見られること多く、構造線とよばれます。 ここにあるのが糸魚川−静岡構造線です。
 強調して書きますが、糸魚川静岡構造線は東北日本地質区と西南日本地質区を区分する大断層です。 その東側にあるのがフォッサマグナです。フォッサマグナが2つの地質区の境界ではありません。

東北日本地質区の基盤岩  フォッサマグナが地溝であるとすると、糸魚川静岡構造線の東側に古い時代の岩石がかたまりとなって 分布しているはずです。一般に古第三紀以前の岩石を基盤岩ということがありますので、ここでも基盤岩とよぶことにします。
 東北日本地質区で、基盤岩の分布域が大きくはっきりしているのは、阿武隈山地と北上山地の2ヵ所でしょう。 その西側と糸魚川静岡構造線は相対していませんし、間に関東山地や足尾山地、越後山脈といったところに基盤岩が残されています。 これらも大陸の断片といえます。北上山地や阿武隈山地は、引き裂かれた反対側というわけではなさそうです。
 どちらかというと、大陸はたくさんの断片に別れながら移動してきたようです。 地溝ではバラバラになることはありませんから、ここは地溝とはいえそうにありません。 関東山地の大陸断片を見ると、地層(地質区分)の境界線が北西−南東方向に伸びています。 西南日本地質区の山梨県。静岡県付近の境界線の方向が北東−南西方向ですから、移動している間に回転しているようです。 このようなことも地溝では起こりません。
註:足尾山地−越後山脈から東北地方全体が、基盤岩でできた大きな地塊とする考えもあります。

日本海沿い地域の地質と地形からわかること  ここで日本海沿い地域の地質や地形に注目してみます。 秋田県から島根県の海岸付近を見ると、沖合に基盤岩でできた島がいくつかあることに気がつきます。 男鹿半島、佐渡島、能登半島先端部、隠岐や出雲半島がこれに相当します。 この島々と日本列島との間には、グリーンタフが分布しています。
 これらの島々は、日本海ができるときに、大陸がいくつかの断片になったものが残されたものでしょう。 日本海中に存在する大和堆等の高まりも同じだとされています。
 そうだとすると、東北日本の越後山地などの基盤岩地域も大きなかたまりではなく、それぞれが個別のの大陸断片と考えてはいけないのでしょうか。 その間には会津盆地や山形盆地、北上川流域といったフォッサマグナのような奇妙な溝状の地形がたくさんあります。

フォッサマグナとは何か  日本海ができたときに西南日本以外は、大陸がたくさんの断片に別れてバラバラになっていきました。 断片のすきまには、別れるときにできた正断層の上に乗っていた岩盤も落ち込んだかも知れませんが、 その岩盤も続けて起こった激しい火山活動に飲み込まれてなくなってしまいます。 同時に正断層も消えてしまいます(ずれた相手側がなくなると断層とはいえなくなるから)。 最終的には、モザイク状に残る基盤岩できた地域のかたまりと、その間には低地が広がることになります。 正断層がない以上、このような低地は地溝とよぶことはできません。
 ナウマンは、南アルプスから八ヶ岳方面に広がる低地を見てここをフォッサマグナと名付けました。 この低地が地溝と考えた事は間違いだったのではないでしょうか。境界となる正断層は存在しませんから。 地溝ということのみを取り除いて、フォッサマグナとは何かを考えてみると、北アルプスの東側に広がる低地、 およびその直江津までの延長とした方がよさそうです。ナウマンが最初に感じたことにあたります。
 フォッサマグナの東端の断層はどれかで議論になっているようですが、無意味なのではないでしょうか。 フォッサマグナは地溝ではないことがじゅうぶんに考えられるのですから。

糸魚川静岡構造線について  日本列島を押し出す力が働いて、現在の日本列島の形ができあがりました。押し出した力はすぐになくなり、 その後は、太平洋プレートが押す力が、日本列島に加わる力の主体となりました。 この力によって東北日本はだんだんと西側に移動しようとします。その先には西南日本がつかえていますから進むことはできません。 そうなるとどこかで一方が乗り上げて、もう一方が沈んでいくということが起こります(他にもいろいろ方法はあります)。
 西南日本は大陸断片でしたから花こう岩系の岩石です。東北日本はグリーンタフですから玄武岩質マグマに由来するものです。 花こう岩質より玄武岩質の方が重たいので、この2つの岩石が押し合いをすると、 玄武岩質岩石が沈み込み、花こう岩質岩石が乗り上げるようにして重なっていきます。 そこには、グリーンタフと大陸断片の岩石が接した逆断層ができます。これが糸魚川静岡構造線ではないでしょうか。 そうだとすると、糸魚川静岡構造線は日本海ができたときにはなかったことになります。 フォッサマグナはグリーンタフ地域の一部で南アルプスに最も近いところにありますから、その西端は糸魚川静岡構造線になります。 これができたのは偶然と見た方が良いでしょう。関東山地などの大陸断片の周囲にも断層はできそうです。 でもその大きさは糸魚川静岡構造線に比べたら小さいでしょう。
 糸魚川静岡構造線から玄武岩質岩石が沈み込んでいくことによって、地表面は激しく隆起します。 これが日本アルプスとよばれる高い山脈を作る原動力となります。

 フォッサマグナは地溝ではないと考えた方が多くのことについてすっきり説明できそうです。

2020.11.20この節追加




補足2:フォッサマグナと伊豆地塊(フィリピン海プレート)

南アルプスと富士山 伊豆地塊の北上 右写真は、南アルプス北部越しに富士山をみたものです。 南アルプスには、日本第2位の北岳や第3位の間ノ岳などの非常に高い山が写っています。 アルプスの向こう側の低地がフォッサマグナになります。この付近のフォッサマグナには、 富士山や丹沢山地、愛鷹山、箱根山等の山々があり、そのさきは伊豆半島につながっていきます。
 この付近を地図で見ると、伊豆半島が日本列島に南から北側に突き刺さっているように見えます。 日本列島の南側にある南海トラフは、伊豆諸島の付近に達すると真っ直ぐ伸びずに、伊豆半島を北に迂回するように曲がっています。 伊豆半島の東側では相模湾の軸となり、西側には駿河湾の軸となっています。 このようすは、南海トラフが伊豆半島の北上によって押し曲げられたように見えます。 伊豆半島を乗せている大きな岩盤は伊豆地塊とよばれていますから、以後はそれに従うことにします。
 この付近の地質構造図(補足1に載せた地質図)を見ても、 古い時代の地層の伸びの方向(走向方向)が、西側ではほぼ東西方向に伸びていたものが、 伊豆地半島を取り巻くように「ハ」の字型に曲がっていることが読み取れます。 この変形からも、伊豆地塊がここに突き刺さるように突っ込んできてできたようにみえます。
 このことから、本州から見ると伊豆半島は南から北上してきたと考えられています。 実際には、伊豆半島には衝突後にできた火山などがありますから、その土台が衝突したといった方が正確です。この土台を伊豆地塊と呼んでいます。 北上してきたのは、伊豆地塊だけではなくそこから南に連なる伊豆諸島などの島々も同じように移動してきたといわれています。 この動きは、伊豆諸島を乗せているフィリピン海プレートの移動によるものだとされています。 つまり、フィリピン海プレートが北上するに伴って、その東端にある伊豆地塊や伊豆諸島が日本列島に突き刺さるようにやってきたと考えられています。 さらには、伊豆諸島なども将来は本州に衝突するのではないかともいわれています。
 富士山の北東にある丹沢山地から、サンゴの化石が見つかっていることから、伊豆半島が南方からやってきたという考え方もあります。

 伊豆地塊が、南からやってきて日本列島に突き刺さるようにめり込んでいます。その後方には伊豆諸島が並んでいます。 伊豆地塊が日本列島にめり込んだのなら、後方に続く伊豆諸島も日本列島に次々と押し寄せてくるように思われます。 注意して見て欲しいのは、現在ある火山島としての伊豆諸島が作られたのは、せいぜいここ2−3百万年の間のことです。 伊豆地塊を作っている古い岩石の年代(新第三紀中新世)に比べると格段に新しい時代になります。
 さらに注目しないといけないのは、 これらの火山は、太平洋プレートが伊豆−小笠原海溝で沈み込み、ある程度の深さに達した場所でできるマグマによってできた火山であるということです。 太平洋プレートは、更に北側では日本海溝での沈み込みにつながっています。これによってできる火山群と一連のものと考えた方がいいでしょう。 伊豆地塊の後方に並んでいるのではなく、日本海溝から伊豆小笠原海溝に沿って平行に連なるように作られた火山群であると考えるべきです。

伊豆半島の生い立ち ここで、一般的に考えられている伊豆半島のでき方について、「伊豆半島ジオパーク 世界ジオパーク加盟申請書」 の解説(図11)を元に要約することにします。 サイトのURLは「https://izugeopark.org/wp/wp-content/uploads/2018/01/izugeo_GGNapplication_JGN.pdf」、閲覧日は2021年2月です。

年代(万年)海溝からの距離 状態 特記事項
2000〜1000 800〜400km深海での噴火湯ヶ島層群火山
1000〜 200 400〜 80浅海での噴火白浜層群火山
 200〜 100  80〜 40陸地衝突の始まり
 100〜  60伊豆半島の隆起丹沢山地の隆起
  60古期火山伊豆半島の原型
  60〜  20天城山愛鷹山などほぼ現在の形
  20〜伊豆東部火山群伊豆半島の完成

 100万年前以後は、伊豆半島が海溝の北側の本州南方の大陸棚に衝突したから書かれていないのでしょう。それ以前は40km以上も離れています。 急にこの距離が詰まったというわけではなく、記述のミスのようです。海溝からの距離と書かれているのは実際には本州からの距離を示していて、 大陸棚の幅が40kmとしたら、この部分の説明はつきます。
 衝突の時期を60万年前にしているのは、図面からは丹沢山地が隆起を始めたのがこの頃だからと読み取ることができます。 伊豆半島の移動速度は、100万年で40kmと一定になっています。60万年だと24kmです。 ところで、海溝とか丹沢山地の地層の曲がりぐあいからどれだけめり込んでいるかを推定してみると100kmくらいはありそうです。 年数にして250万年程かかります。ちょっと時間が足りないような気がします。
 さらに気になることがあります。2000万年前は伊豆半島は本州から800km離れたとことにあって、この頃に火山活動を開始しています。 火山ができたのは海溝の沈み込みによるものでしょう。とすると、火山活動は海溝に沿って何カ所かで開始したはずでず。 本州との間で発生した火山活動は1ヵ所や2ヵ所ではなかったでしょう。
 いろいろな研究結果を見ていると、伊豆地塊以外にも3つ(4つという説もあります)の地塊が衝突したというのが多いようです。 1200万年前(櫛形山地塊)、900万年前(御坂地塊)、500万年前(丹沢地塊)です。 この考え方を「島弧−島弧多重衝突説」とよんでいます。
 地層や海溝の曲がりから100kmめり込んでいるという時間的な問題はこれで何とか説明できそうでます。 それでも、地塊の数は足りなさそうです。これについては後述します。

フィリピン海プレートの動き 父島 電波望遠鏡  ところで、実際のフィリピン海プレートの動きはどうなっているのでしょうか。 この動きは2つの方法で測定されています。
 一つは、2地点で星から届く電波の到着時刻のずれを測定して求めるものです。 これに使われる電波望遠鏡は、VLBI電波望遠鏡(超長基線干渉計)と呼ばれます。右写真は、小笠原諸島父島にある電波望遠鏡です。
 もう一つは、GPSを利用する方法です。 これらの方法で求められた本州に対するフィリピン海プレートの動きは、北西方向に3〜4cm/年といわれています。 この速度は、南からやってきて伊豆半島が衝突したという説明に書かれている速度とだいたい同じです。 向きに関しては、説明では北向きとなっていますから一致していないようです。 運動の向きが北向きから北西向きに変わったということで説明しようという考え方もあります。
VLBIは多くの電波望遠鏡を一つの大きな望遠鏡として使って、遠くの天体の細かい構造を見るために開発された技術です。 父島には、本州との距離測定に使われた国土地理院の電波望遠鏡(運用終了)のほかに、国立天文台のVERA電波望遠鏡もあります。


日本海拡大時のフィリピン海プレート  伊豆地塊はフィリピン海プレートに乗っていますから、フィリピン海プレートの動きとあわせて考える必要がありそうです。 実際の動きは、「伊豆半島の生い立ち」に書かれているほど単純な北上ではなさそうです。フィリピン海プレートの形成と深く関わってきます。
 フィリピン海プレートがいつどのようにしてできたのかについて、 要約すると「フィリピン海プレートの東半分は新第三紀の中頃の短期間に、九州−パラオ海嶺の東端が裂けるようにできた」ということです。 裂けた東端は小笠原諸島で見ることができます。その間に四国海盆ができます。ここが裂けた所の中心になります。 こちらで詳しく説明しています。
 フィリピン海も日本海もどちらも裂けるようにしてできたというのは興味深いことです。 どちらが先にできたのでしょうか。フィリピン海プレートが後からだとすると、伊豆地塊が日本列島に突き刺さる位置が九州の東あたりになりそうです。 話が合いませんから、これではなさそうです。
 年数で比べてみることにします。四国海盆の年齢が3000〜1500(1700とも)万年前といわれています。 室戸岬のハンレイ岩が日本海形成のきっかけとすると2000万年前が開始時期となります。 四国海盆の方が先に開始し、先に終了したことになります。
 年数が接近しているのは、興味深いことです。何か関連があるのでしょうか。きっかけを作ったということも考えられます。 確定できる要素がありませんから、ここでは触れないで先に話を進めることにします。

日本海形成直前の日本付近 日本海拡大直前の日本付近 日本海が拡大を始める直前の日本付近のようすを考えてみます。だいたいのようすを想像した図を右に書いてみました。 海岸線を書いていますが、現在の位置と比較するためのものでこのとおりであったというわけではありません。 日本列島の位置も大雑把です。

 フィリピン海プレートを薄い黄色で示しています。九州から南南東に伸びる黄色の線が九州パラオ海嶺の軸です。 ここから裂けてできた伊豆−小笠原海嶺はフィリピン海プレートの東の端に乗っているはずです。これも黄色で示しています。 伊豆地塊は伊豆−小笠原海嶺の北端にあるとして○で印をつけています。
 図を復元する上で問題となることがあります。フィリピン海プレートがどの方向に開いていったのか正確にわからないことです。 四国海盆から左右対称に同年代の岩石が分布しているようですから、四国海盆(軸を橙色線で示しています)に対して直角方向として書いています。 黄緑色線は、フィリピン海プレートが沈み込む南西諸島−琉球海溝を示しています。
 その後のフィリピン海プレートの運動による影響も取り除いて考えないといけませんが、この図はかなり大雑把な図ということで わかりやすさを優先させることにしています。
 太平洋プレートを青系統の色で示しています。濃い色がプレートが沈み込む海溝がある所、 薄い色が日本列島から沈み込んでいったプレートがマントル中にある所です。 フィリピン海プレートとの境界がどうなっているかはっきりしませんが、そのまま西ないし西北西に移動しているとして位置関係を見ると、 わずかに開いていきそうです。中央海嶺ができていそうです。図では赤線で示しています。 実際には日本付近やその途中までフィリピン海プレートだったかも知れないし、トランスフォーム断層だったかも知れません。
 どの説をとっても日本海ができた原因としては、沈み込む太平洋プレートの先端から戻ってくるようなマントル物質の流れがあったことを考えています。 桃色矢印で入れてみました。先に述べた仮説に従うと、横方向からの流れ込みもありそうです。これも含めて記入しています。
 横からの流れ込みもあったと仮定してみます。この流れ込みは、マントルの浅い所からやってきますので、それほど温度は高くなかったでしょう。 山陰沖にあたりまでは、この流れで冷やされることでマグマの形成が遅れることもありそうです。 東北日本では西南日本より火山活動が早くはじまったということはこの説では説明できそうです。
 更に九州付近では、日本列島を押し出す力が弱くなります。流れ込みは、山陰沖の日本海あたりに集中しそうです。 ここの地殻(プレート)が大きく持ち上げられて、日本列島を開くように押し出す原動力となったと説明することができます。 このことの説明としては、横に流れが漏れるように逃げていったということでも成立しそうです。

日本海拡大と伊豆地塊 この状態から、日本海が開いていくとどうなるかを考えてみることにします。
 それでは、日本海を開かせることにします。九州付近を中心にして西南日本を右に回転させてみます。 その先にあるフォッサマグナ地域は急速に伊豆地塊に近づいていきます。これを、フォッサマグナ地域から見たらどう見えるでしょうか。 急速に伊豆地塊が北上してきてたように見えます。
 それではどこまで接近したのでしょうか。伊豆半島衝突説のプレート移動速度で考えると、1500万年で600kmになります。 これだけ南にいることになります。近づいたとはいえまだまだ離れています。目の前に迫っていたとしたら、 それは伊豆地塊ではなく、伊豆−小笠原海嶺の北側続きにある地塊なのでしょう。以後しばらくは、伊豆ー小笠原海嶺と書くことにします。

 この問題について、別の研究からの結論です。 関東山地(秩父盆地)で地層中の古地磁気の向きを調べたところ、1500〜1200万年の間に60度、 1200〜600万年の間に30度時計回りに回転したことがわかりました。
 先に起こった60度の回転は日本海拡大に伴う西南日本の回転に相当し、 それに続く30度の回転は伊豆−小笠原海嶺の衝突によるものとされています。 このことにより、日本海拡大直後は伊豆−小笠原海嶺は本州にぶつかっていなかったと復元されています。
 もう一つ気になることがあります。1回目の60度という角度は、一般的にいわれている西南日本の回転角度である40度に比べて大きいようです。 紀伊半島の室生火山岩も60度回転してしますから誤差の範囲と考えられているようです。 拡大時も含めて1200万年前までに衝突が始まっていて、それによって20度ほど余分に回転していたということはないのでしょうか。 この場合の回転角度は小さいので、伊豆−小笠原海嶺が本格的に衝突していたとは言えないでしょう。
 そうだとすると別の問題が起こります。伊豆−小笠原海嶺は、太平洋プレートの沈み込みによってできます。 拡大前に日本列島のあった位置からずっとつながっているはずです。日本列島が動いた経路にあった海嶺や火山島はどこにいったのでしょう。 先ほどの地図を見直してみます。これでは、伊豆地塊と印の入れた所から日本列島の間には火山はなくてもいいことになります。 日本列島にぶつかった火山が少ないのはこれで説明できますがどうなのでしょう。

 伊豆諸島がプレートに乗って本州にやってきたとします。今の伊豆半島のある所で本州にぶつかるのでしょうか。 たとえば、三宅島を現在のプレート移動方向である北西方向に動かしていくと、焼津付近にぶつかります。 約130km離れていますから、だいたい300万年後になります。八丈島だと浜名湖付近で600万年後です。 衝突位置だんだん西側にずれていくことになります。
 それでは、伊豆半島を日本海拡大前の位置に戻してみることにします。600km南東にあったことになります。 八丈島と鳥島の真ん中あたりで、小笠原海溝を越えてまだ東側になります。 ずいぶん東側になります。小笠原海溝の延長方向を考えてみると島の並びは南北になるから、 今の伊豆半島付近で日本海拡大以後、島がぶつかり続けることはできないという考えもあります。
 フィリピン海プレートの運動方向は、海底の岩石の残留磁化方向から500万年前以前は北東方向だったということもいわれています。 運動の向きに合わせて島を配置するのはうまくできそうにありません。すんなり説明しきることは難しいようです。

北部フォッサマグナと南部フォッサマグナ  ここまでの話を見ると、甲府盆地より南側のフォッサマグナ地域はそれより北側に比べてでき方がだいぶ違っているように見えます。 そのため、フォッサマグナ地域は甲府盆地を境にして北部フォッサマグナと南部フォッサマグナに区分されています。 さらに、南部フォッサマグナの形成は日本海拡大とは直接関係がない事になります。
 フォッサマグナの定義が悩ましくなってきました。 日本海拡大で裂けた西南日本の断片の東の端と見るなら、 拡大開始直後の関東山地は西南日本と一体だったので、境界線はここよりも北側を通ることになります。 ナウマンは、伊豆の衝突によってできたと考えていました。 それなら身延山地と関東山地の間が折れてできたすきまがフォッサマグナになります。
 一般的にいわれているフォッサマグナは両方あります。深く考えないで、 南部と北部では様相が違うということを頭に入れながら、どちらもフォッサマグナということにしているようです。

フィリピン海プレートと西南日本  現在フィリピン海プレートは西南日本にぶつかって、そこから沈み込んでいっています。 そのようすは、太平洋プレートが日本−伊豆小笠原海溝で沈み込んでいっているようすとはだいぶ違うようです。 西南日本の南側は海溝ではなく、それよりはるかに浅いトラフ(舟状海盆)という地形になっています。
 更に、沈み込んでいった先ではマグマが発生するために火山が作られますが、近畿から山陰地方にかけてはそれに相当する火山がほとんどありません。 御岳・乗鞍山・白山・立山(弥陀ヶ原)は、太平洋プレートによるものかフィリピン海プレートプレートによるものかはっきりしないので別にして考えると、 三瓶山(島根県)と阿武火山群(山口県)しかありません。九州になると多くなりますが、更に沖縄まで行くと再び少なくなります。
 フィリピン海プレート(の東半部)は太平洋プレートに比べて比較的最近できたものであることと関係がありそうです。 そのあたりはどうなのでしょう。
 近畿北部と山陰地方に活火山とは言えないけれども比較的新しい火山がいくつかあります。代表的なものは鳥取県の大山です。 これらの火山は、今から150万年前に活動を始めたといわれています。大山からプレートを遡って南東方向へ追って南海トラフまで約400kmあります。 これだけ沈み込むのに伊豆半島衝突の速さを使って計算すると、1000万年になります。 火山の活動を始めた頃、直下にあったプレートは1200万年前に沈み込みを始めたことになります。 1200万年前といえば、伊豆海嶺が日本列島に衝突を始めた時期です。フィリピン海プレートが日本列島にぶつかり始めた時期といっていいでしょう。 偶然なのでしょうか。
 この時に沈み始めたプレートは、できてから500万年ほどしか経っていません。プレート上には海底堆積物はそれほどのっていないんでしょう。 プレート沈み込みに伴って堆積物やそれに含まれている水分も運ばれていきます。堆積物が少なければ運ばれる水分も少なくなります。 この水分によってマントル物質が部分溶融しマグマが作られますから、マグマの発生も少なくなります。。 火山が少ないのはこういった要素が関係していそうです。堆積物が少なくても、大陸棚堆積物が運び込まれかも知れませんが、 厚みによる圧力で水分が絞り出されているでしょう。
 プレートは時間が経つにつれ厚くなっていきます。フィリピン海プレートはそれほど厚くはないでしょう。その分沈み込みの力が弱くなります。 引きずる力が小さくなりますから、それに伴ってできる海溝は浅くなりそうです。 浅くなっているのはこれが原因と考えることはできないでしょうか。
2021.03.25この節追加




 更 新 履 歴 
2009.09.23 掲載開始
2009.10.31  加 筆
2009.12.13 大枠完成
2020.11.20補足1追加
2021.03.25補足2追加




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